富士山の水に行こう
もっとはっきり言えば、この概念は具体的な決定のための処方菱を提供するのにあまりにも一般的にすぎるのである。
これは自己矛盾のない首尾一貫したもので、試行錯誤を繰り返す余地が大きいといえる。
それこそわれわれが必要とする類いのグローバル社会には健全な基盤と。
なるだろう。
カントは彼の良心の絶対無条件的道徳律を、自己利益や欲望を排除して理性の命ずるままに導かれるある道徳的主体が存在するという前提から出発した。
そうした道徳的主体は、外部的原因にその意思が左右される「他律」性の主体とは対照的に、その意思が超越的な自由と自主性を楽しむことになる(注)。
この主体が無条件の道徳律を認識することができるのであり、そうした道徳律はすべての理性的な人間に普遍的に適用できるという意味で客観的である。
己れの欲するところを人に施せという黄金律はまさにそうした絶対無条件的道徳律のひとつである。
こうした道徳律に無条件の権威をもたせるのは人々が理性的な主体であるという発想によるものである。
問題はカントが理性的な主体と表現したものが存在しないことにある。
それはものごとを抽象化する過程で創造された幻影なのだ。
啓蒙思想家たちはみずからを世俗から超越してなにものにも妨げられない存在であると考えたがっていたが、実際にはキリスト教の道徳律と生得の社会的義務感をもつことによって、自分たちの属する社会に深く根をおろしていた。
彼らは自分たちの社会を変革させたいと思っていた。
この目的のために、理性に恵まれた独立独歩の個人を発案し、この個人は外部の権威の命ずるところではなく、みずからの良心の命ずるままに行動するものとしたのである。
彼らは真に独立独歩の個人なら義務感を伴わなくなることに気がつかなかった。
社会的価値観は内面化されるかもしれないが、そうした価値観は理性に恵まれた独立独歩の個人から発したものではなく、その個人が属するコミュニティから出てきたものである。
現代神経学の調査研究はさらに進んで、頭脳が特殊な形で傷つけられた結果、とらわれない観察能力と理性の力はそのままでも自己認識の力を失ってしまった個人の存在をはっきりさせてくれた。
彼らの判断力は損なわれており、その行動は常軌を逸して無責任なものになった。
というわけで、道徳はコミュニティへの帰属意識にもとづくものであることは明白といえよう。
それが家族であれ、友人であれ、部族、国家あるいは人類であれ、なんでもいい。
だが、市場経済はコミュニティを形成しない。
とりわけグローバル経済の舞台で動いているときはそういえる。
特に経営陣が他のあらゆるものより利潤動機を優先させ、個人がなにかの拍子にあっという問にクビにされる状況では、ある会社に一雇用されていることはコミュニティに属することと同じとはとてもいえない。
今日の取引社会にいる人々は絶対無条件の道徳律に支配されているかのような行動をとりはしない。
囚人のジレンマ(注2)の方が彼らの行動についてもっと真実の光を与えてくれるようだ。
カントの道徳哲学は理性が外部の権威と争わねばならなかった時代には通用したが、外部の権威が欠けている今日では奇妙なことに通用しないのである。
善と悪とを区別することが必要だということまでが疑いの対象となっているからだ。
一連の行動が望ましい結果を達成するなら、いまさらなにを悩む必要があろうか。
なんで真実を追求するのか。
なぜ正直でなくてはならないのか。
なぜ他人のことを気にするのか。
グローバル社会を構成する「われわれ」とはだれなのか。
われわれをともに結びつけるはずの価値観とはいかなるものなのか。
いまこそこれらの問題に答えるべきときである。
しかしながら、啓蒙思想がその崇高な野望を満たすことに失敗したというだけの理由で、その道徳的、政治的哲学を一切ばっさりと切って捨てるのは誤りといえよう。
間違いは避けられないという誤謬性の精神に従えば、われわれは考え方の行き過ぎを是正しなくてはならず、極端から逆の極端に走らないようにすべきである。
社会的価値観のない社会は生き残ることができず、グローバル社会はそれをひとつに束ねるための普遍的価値観を必要としている。
啓蒙思想はひと組みの価値観を提供した。
その記憶は一部は消え去ったように思えるが、まだ残っている。
それを破棄しないで新しいものにすることがわれわれに必要なことなのである。
啓蒙思想の価値観は、理性を誤謬性に置き換えることによって、また啓蒙思想家の言うなにものにも束縛されない個人を「束縛された個人」に置き換えることによって、現代にも通用するものにすることができる。
私が言う束縛された個人とは、社会を必要とする個人、完全な孤立状態では存在することができず、それでいて啓蒙思想の時代には人々の生活のなかにすっかりとけこんで、そんなものがあるとは意識もしていなかった帰属感というものを奪われてしまった個人のことである。
束縛された個人の考え方を形成するのは彼らのおかれた社会的背景、家族その他のつながり、それに彼らを育んできた文化といったものである。
彼らは時間を超越した、将来展望をもたない地位を占めているのではない。
彼らは完全な知識を授かってはいないし、自己利益をもっていないわけでもない。
生き残りのために戦う用意はあるが、自制心があるわけでもない。
競争でいかにうまくたちまわろうと、不死身ではないからいずれ死ぬだろう。
彼らはより大きくて、より永続的ななにかに属する必要がある。
もっとも、間違いは避けられないという誤謬性のある性格から、そうした必要を認識していないかもしれない。
言い換えれば、彼らは現実の人間であり、その思考は誤ることがある思考する主体であって、抽象的な理性を人格化したものではない。
束縛された個人という考えを提起することで、もちろん私も啓蒙思想家たちと同じ種類の抽象的思考法に携わっている。
私はその形成に伴うわれわれの経験にもとづいて、もうひとつの抽象化を提言しているのである。
現実はつねにわれわれの解釈するものより複雑である。
この世界に生きる人々の範囲は啓蒙思想の理想からそれほどかけ離れていない人々から、かろうじて個人としての振る舞いをする人々までさまざまであり、その分布曲線は後者にうんと傾いている。
私がここで指摘したい点は、グローバル社会は束縛された個人の帰属する必要性を決して満たしてはくれない、ということである。
グローバル社会はコミュニティには決してなりえない。
それはコミュニティとなるにはあまりにも大きく、あまりにも変化に富み過ぎている。
あまりにも多くの異なる文化と伝統をかかえているからだ。
グローバル社会はつねに抽象的ななにか、ある普遍的な観念にとどまっていなくてはならない。
それは束縛された個人の必要とするものに敬意を払い、こうした必要性が満たされていないことを認めなくてはならないが、それを完全に満たしてやろうとしてはいけない。
いかなる社会組織もそれを一挙にすべて満たすことは到底できないからである。
グローバル社会はみずからその限界を意識しなくてはならない。
それはひとつの普遍的な観念であり、普遍的な観念というものはすべて、行き過ぎると危険なものになりうるからである。
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